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ギルバートグレイプ


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《ギルバート・グレイプ》はカマリキの雄か?

原題の 『What’s Eating Gilbert Grape 』は直訳的には「何がギルバートを蝕んでいるか」になる。しかし、 eat は困らせるという意味があるので「何がギルバートを困られているか」のほうが的確。さらに、What’s eating you. が成句として「どうしたの」「何イラついてるの」と意味だそうなので、ハルヒを真似て「ギルバートの憂鬱」、あるいはゲーテのように「若きギルバートの悩み」のほうが分かりやすいかもしれない。いずれも映画のタイトルとしてはインパクトはないけど。

ギルバートの「憂鬱」や「悩み」が何なのかは、映画を観れば自ずと分かるわけど、ギルバートは本当に家族に拘束されていたのか、と考えてみることにします。ネタバレしてます。

ベッキーに「欲しいものは何?」と問われてギルバートは「家族のために新しい家、母にエアロビ教室、エレンが大人になること、アーニーには新しい脳みそ」と答えます。ベッキーはしびれを切らして「あなた自身のためには?」と聞きます。「いい人になりたい」と答えたものの「こういうのは苦手だ」と逃げます。ベッキーは「いいわ」と受けたものの、ギルバートが自分自身が何を欲しているかわからいことに、あきらかにいらだっています。つまり、ギルバートはすでに「いい人」であることは間違いありません。しかしベッキーはそれは人のためで自分のためではないと非難しておるのです。人のために「いい人」であることは、悪いことなのでしょうか。

パーティの前日にお風呂に入るのを嫌がるアーニーをギルバートが殴ります。このときの感情の高ぶりはなぜ起こったのか。その日、アーニーはふざけていてエミーとぶつかり、エミーはつくりかけのケーキを床に落としてしまいました。ギルバートはフードランド(新しくできた大規模スーパーマーケット、ギルバートの職場の食料品店のライバル)にケーキを買いに行きますが、20ドルもしました。そのケーキをアーニーがつまみ食いしたからだと思われます。が、いままで「いい人」だったギルバートが、それだけのことで殴ることはないでしょう。

ギルバートの心の中に、これまでとはちがう何かが芽生え始めていたということです。それは何か、というのがこの映画の主題です。

トレーラーハウスの修理が終わってベッキーが町を去るときに、ギルバートが「なっていったらいいか分からない」と言ったら、すかさずアーニーが「ありがとうって言うんだよ」と言います。アーニーのこのセリフは、笑いも誘いますが、感動的です。のちにブルーレイディスクの音声解説を聞いてスタッフが発案したセリフだとわかりましたが、思いついたスタッフはきっと自分の子育てでも同じ経験をしたのかもしれません。つまり、アーニーがすごく成長したということを表しているセリフです。場面に応じた適切な挨拶ができなかったアーニーが、適切な挨拶言葉を指示しているのですから。

「誰かに叩かれたらギルバートに言うんだぞ」と言っていつも守ってくれるはずのギルバートから殴られたアーニーのショックは大きかった。なぜ殴られたのかも、分かっていなかったかもしれない。しかし少なくともベッキーのところに行ったあとは、殴られた理由を理解したはずです。なぜなら、アーニーがのちにギルバートを許すことになるからです。

殴られたアーニーも殴ったギルバートも、ベッキーのところに向かいます。通りすがりの旅人であるベッキーに救いを求めています。出会って数日しか経っていないのにベッキーは、なぜ彼らから救いを求められる存在になったのでしょう。それはベッキーが人を慣習や偏見などの予断をもって人を判断せずに人とつきあうことができる人であり、町の人たちとは異なった価値観の持ち主だったからでしょう。

食料品店からの配達でアーニーが荷物を落としてしまったとき、ギルバートが I’m sorry. としつこく謝りますが、ベッキーは気にしなくてもといいます。ここは日本語訳ではあまりうまく伝わらないので、英語の sorry のままで解釈してみましょう。

Are you sorry? No.
I’m not sorry. He’s not sorry.
We’re not sorry.

おそらくアーニーが知的障害児であることも考慮して、暗に失敗は誰にでもあることだから、そんなに恐縮しなくてもいいのよ、と言っているのです。つまりベッキーは初めて会ったときからアーニーの全てを受け入れている。アーニーはその時初めて、自分は悪くないと思う。不注意だったかもしれないが、悪いことをしたわけではない。町から出たことがないアーニーは、そのような考え方には、おそらく人生で初めて出会ったはずです。そこに母性愛を感じたのではないでしょうか。だから、パーティの前日、バーガーバーンの開店イベント会場で、アーニーはベッキーを招待したのです。

そしてギルバートに殴られたときには、「母」を求めてベッキーに会いに行った。事情を聞かれることもなく、やさしくケガを介抱してくれたベッキーは、まさに母親だったのです。ベッキーはこのときもアーニーの全てを受け入れ、水を怖がっていたアーニーと川に浸かって水遊びをしようとします。ベッキーによってアーニーが人に心を開いていく瞬間です。このように、全てを受け入れるベッキーの愛によって、アーニーは自分のしたこと(ケーキをつまみ食いしたこと)を、おそらく人生で初めて恥じたと考えられます。

だからギルバートが家に戻ってきたときにギルバートを許す気になり、その気持ちを表わす行動として、いつものように木に登って隠れるということだったのです。戻ってきたギルバートに対して、エミーは何も咎めないで、うんざりした表情をするだけだった。でも、それだけでギルバートには十分でした。しかし、エミーに笑みが漏れた表情からアーニーの行動に気付いたギルバートも、アーニーにすっかり歩調を合わせます。このときのエミーの表情は素敵です。全てが冒頭のシーンに戻ったようです。

ここで「全て」とは家族の心情のことです。ちょっといざこざがあったが、俺たち兄弟、私たち家族よ、という感じの家族の絆です。それを認識させてくれたのがアーニーの行動でした。ギルバートにいつものように探させることによって、いつもの平安な家庭生活が戻ってきたのでした。違っているのはアーニーが成長したことです。

アーニーにこの行動をさせたのが、前日のベッキーの愛情でした。ベッキーはアーニーの全てをありのままに受け入れ、それゆえにアーニーにとって母親的存在になったのでした。

この映画では、当時、知的障害児がどのように扱われているかというとがわかりません。しかし食料品店のラムソンさんや町の人たちは、アーニーが特別なことを知っています。貯水塔に登るアーニーを警察が拘留したのは、アーニーが騒ぎを起こしたからではなく、アーニーを危険から遠ざけ、保護し、訓戒するのが目的でした。しかしそんなことをしても、アーニーが物事を聞き分けることができないことは百も承知でした。

ところが、この事件によって、母親は7年ぶりに自宅を出て、アーニーを留置所から連れ出しに行き、アーニーは母親の愛を感じることになります。しかしその愛は、まるでペットを可愛がるようなもので、ただ単にかわいいかわいいと強く抱擁されるだけの愛だったことに気付くのです(窒息しそうでしたから)。

一方、ベッキーの包容力は次元が異なっていました。ベッキーはアーニーの全人格を受け入れ、アーニー自身にさえ障害があることを忘れさせてくれるのです。アーニーはそのことによって、ギルバートを受け入れることができるようになったのです。

だからトレーラーハウスの修理が終わって去っていくベッキーに対してギルバートが「なんて言ったら良いか分からない」と言ったとき、すかさず「ありがとうって言うんだよ」と言うことができたのです。もちろん、それはアーニーのベッキーに対する気持ちの表れでもあります。

ベッキーが去ってから1年、再びベッキーに会って一緒にトレーラーハウスの旅にでるギルバートとアーニー。この1年間で何があったかは何も語られませんが、ギルバートとアーニーはまた一緒にトレーラーハウスの行列を待っています。姉妹がそれぞれ独立していったけど、アーニーはギルバートと一緒だ。アーニーとギルバートは常に一心同体なのです。

カマリキの雌は町から去っていったので、ギルバートは食われることはなかったのですが、ここで、ようやく、What’s eating Gilbert のWhat が「田舎町」ではなく「アーニー」だったことがわかります。18歳になっても大人になれず、少しも成長しないアーニーに、ギルバート自身を投影して嘆いていたことだと分かります。自分自身の将来について何も語れず「いい人になりたい」とだけ言ったギルバートにとって、成長しないアーニーは足かせだったのかもしれません。しかし、ベッキーとのほんの少しの間だけの出会いによってアーニーは成長した。そのことを知ったギルバートが自分のために、アーニーのために、次にしなければならないことが、ベッキーと一緒にいるという選択だったのです。

ギルバートの言っている「いい人」とは、人に与えるよろこびを持つ人ではないかと思います。つまりギルバートは、今まで家族に与えていたことを、家族以外の誰かに与えることができる自由を得たということでしょう。彼が「いい人」であり続けるのはなんら問題ないが、それが家族を支えるために自分を犠牲にしているというのはよくないというのがベッキーの見解だったのです。でもこギルバートの「いい人」は他者からの評価をもとめていい人ぶるのではなく、ギルバートの心情としてのいい人、家族の幸せを願ういい人だった。ベッキーの思うほど自己犠牲はなかったかもしれない。しかしそれも、母親が死に、家も焼き払い、姉妹も独立したことによって、地理的拘束から解放された。ギルバートのいい人ぶりが、世に解き放たれ、本当にいい人でい続けることができるようになったということではないでしょうか。

というわけで、ギルバートに目覚めたのは、家族以外の人に与える愛。だと思うわけです。

1993年のアメリカ映画
監督:ラッセ・ハルストレム
脚本:ピーター・ヘッジズ(原作小説も)
出演:ジョニー・ディップ、レオナルド・ディカプリオ
字幕:戸田奈津子
吹替翻訳:岩佐幸子